体の健康

感覚の入力を削ぎ落とす事に努めた結果、分かったのは当初求めた快適は一時的なものに過ぎず、長期にわたると、一定の決まった種類の感覚のみの入力だけによるものか体調が悪くなる。

一方で自然の中から得られる感覚を欲している。

よって物理世界からの感覚を全て遮断しようとするのではなく、どの刺激を取り入れるか選択していくのが気分良く暮らすために必要なのではないかと考える。

 

自分と呼んでいるものに体と精神の二つがあって、精神側に傾きすぎると、体を支配しようとしたら対峙したものとして捉えるような気がする。

そうではなく、自然があってその中にカラダもあって体が存続する限り意識もある、というのが前提だと思うのだけど、意識に意識しすぎると意識中心となって逆の発想になる傾向があるように思う。

 

算数と数学の違いについての認識の変化

数日前まで数学は算数の延長だと思っていた。

それもそうである、という言い方もできるし、今でもそうとも思っているが、算数と数学の違いについて調べるうちに、自分にとって新しい解釈ができた。

 

算数は、実際に計算すること、その計算のために計算方法を理解していくこと。

数学は、算数で使っている計算方法がなぜそうであってよいのかを担保する概念を、それが真であるということを論理的に証明していく作業。

 

このように算数と数学の違いについて認識すると、自分の人生を振り返って気づいたことがある。

 

自分は算数は他の子供と比較(主にテストの点数による)して、得意なほうであった。

しかし、得意だからといって好きな科目のほうではあったが、のめりこむようなものではなかった。

好きな科目のほう、というのは、他の科目と比較して相対的に、好き、の量が多かった、ということにすぎない。

 

なぜ、そうだったのか今考えてみると、

 

・得意だからその世界では苦労せず進んでいける

・すぐに理解できて次に進めるから、新しいことを学習したときの喜びをより短い時間でたくさん経験できる

あとは少しは、

・他人から認められやすくなる(まわりの人間がほめてくれる)

 

などがあったのだろうと思うが、

一番は、

・安心できる、

ということだと思う。

当時の自分が学習した算数の世界では、

最初に算数で使う数字を覚えて、数字と数字の関係を表す符号の意味を理解したら、

それはずっと同じ意味として有効だった。

1+1=2、と理解して覚えたものは明日も一年後も1+1=2として不変の意味を持つ。ある日突然1+1=3とはならない。(僕の習った算数では、ならないということを前提にしている世界)

これは安心できる。

絶対的不変の存在が認められているから。

絶対的不変の存在を認めるならば、それを軸にして、知識の拡大が行える。

当時は「知識の拡大のために活用できる」などとは思わなかったが、

少なくとも、自分が理解できないまわりの人間の感情

(ある日は喜んで別の日は悲しんでいる、そして直接感情は見えない、見えるのは感情を表現しているだろうと思われる物理的現象。)

や、その他自分が経験する仕組みがよく分からない事柄よりは、ずっと単純明快で一度それを受け入れるなら、それは永遠に保障される、その世界内においては。

 

「わからない」ことは、僕には「不安」と「それを消したい欲求」「わかりたい欲求」を生み出していると思う。これが一般化できるかどうかはわからないが、「わからない」に対する人間の反応は上記3つのような言葉で指す事が多いように思う。

「不安」「それを消したい欲求」「わかりたい欲求」これらの関係についてもいまはわからない。

 

「それを消したい欲求」の中の「それ」が指す概念とは「不安」が指す概念と同一とするなら、「それを消したい欲求」は「不安を消したい欲求」と書き換えられるから、「不安を消したい欲求」という文を満たすには文を構成する一部である「不安」が必要になるから「不安を消したい欲求」という文の存在を認める前に「不安」という言葉の存在を認める必要があり、まず「不安」という言場があって次に「不安をけしたい欲求」という文が存在できる、と考え、それに基づいた「不安」と「不安をけしたい欲求」の関係を導き出していく、という考え方もできるし、いや最初に「不安をけしたい欲求」という文があるからそれを構成する「不安」も認めてよいのだ、という考えもできるのだが、いずれにせよ「不安をけしたい欲求」と上に書いた後の説明は言語レベルの話であって、それをそのまま「不安」が指し示す概念と「不安を消したい欲求」が指し示す概念との関係にあてはめてしまうのは論理的に正しくない。

 

では、「不安」「それを消したい欲求」「わかりたい欲求」はどういったものなのか考えるとすると、

 

・言葉の指し示す範囲と、概念の範囲について

・仮にすべての言葉が一つの概念を指し示しており、その表現方法が違うだけならば、

 なぜ違う表現方法で表現しているのか

・それぞれの言葉間、またそれぞれの言葉で指し示された概念間においての因果性

 あるのかないのか、あるならどんな因果性が、ないならなぜないのか

 

などについて考えていけば、もう少し何か書けたと思うが、いまはしたくないからそれはしない。

 

話を戻すと、僕の人生に「わからない」が出てくると、上記のような思考活動が始まる。

しかし、上記のような思考活動は成果主義が機能している人間社会で、それにならって生きて行くには害になることも多々ある。

なぜなら社会生活は社会とのかかわり方やその程度によって差はあるだろうけど、

①考えているだけではダメで、行動しなければならない。

②行動は他人によって評価される。

以上の条件を満たす事が、多くの人にとって(全て人に対して必要かどうかはわからないが)必要であると思うからだ。

 

 

①考えているだけではダメで、行動しなければならない。

成果主義社会では、思考を物理世界に還元しなければそれは0として意味をなす。(全体としてandいまのところ)

考えても行動に移さなければ意味がない、とされるということだ。

テストの問題の内容を全て理解していても答案用紙に何も書かなければ0点とされる。机の上のりんごが欲しいと思って、腕を動かしてりんごをとって食べることをイメージしても、実際に手を動かしてりんごをつかみんで口元まで持っていき、りんごを口の中に入れて食べなければ、それは食べたことにはならない。とされる。

仮にイメージが「自分がいまりんごをとって食べる動作を想像していること」を与えてくれるのではなく、「実際に食べたときと同じイメージ(りんごをつかんだときの触覚や噛んだときの味覚)」を与えてくれたとしても、(例えば何かしらによる錯覚の場合などによって)それは主観的なことであり、他者からみると、やはり実際に食べたことにはならない。

 

 

②行動は他人によって評価される。

行動は何のために行うのかと言ったら、他人に評価(価値判断)してもらうためである。行動しなければ、0。それを0から変化させようとするために行動する。

変化させようとするため、ということだから行動しても0のままのこともある。

それはどんな状態かといったら、行動したけど、その行動の意味を相手が理解できない場合があてはまる。

また、行動の意図するところが仮に5だったとしても、その行動を-5とを意図するものだと他人が解釈したら、その他人はその行動を-5と評価するだろう。

これは自分が意図するものを表現する行動が、他人にはその行動を通じて自分が意図するものへたどり着かなかったと表現しよう。

いずれにしても、行動は自分が意図するものを相手にも同じように感じてもらうものであるから、その精度が高いほど望ましい。(自分の意図するものを他人が完全に一致してとらえているか確認する客観的装置は僕は知らないが、日常生活では、通常対話しながら確認しながらその精度を高めていく。しかし、これも対話という行動だから、ある行動は別の行動によって精度を高めていくということだから、微分のようなものであって最高でも限りなくそれに近いがそれではない、しかし実用レベルとしてはそれとして扱っても支障がない精度であればよしとする程度)

 

妥協できるレベルの行動(ある意図の表現としての行動が他人からみてほぼその意図を表現する行動だと認識される程度)ができるようになったら、より高い数字として認識される意図するものを創造し、それを表現するのに適当な行動で他人に示すことで自分の行動は他人からより高い評価を受ける。

社会には様々な現象があるから、それらは分類されている。

だから、数字の変化は多次元で考える必要がある。

例)ある行動(先進国のゴミを途上国に売る)の評価は、経済的観点を軸とする座標の3、倫理的観点を軸とする座標の-2

また、ある行動の総合評価は普遍的ではなく、ある条件の基にでたものである。上記、経済的観点、倫理的観点のほかに、国際関係からの観点、環境保護の観点、なども考えられるが、それらの内のどれとどれを考慮するのかしないのか、するならどの程度考慮するのか、その条件によって総合評価は変わる。

例1)経済的観点の座標3倫理的観点の座標-2国際関係からの観点1環境保護の観点は考慮しない、以上を条件として総合評価とする

例2)経済的観点の座標3倫理的観点の座標-2国際関係からの観点1

   個人的に経済的観点、倫理的観点より国際関係に強い関心があるから、

   国際関係からの観点は2倍換算、以上を条件として総合評価とする

 

他人はたくさんおり、それぞれがそれぞれの基準でそれぞれの行動を評価している。

全ての分野で評価が0(実際にはなかなかないだろうけど)ということはそこでの存在価値は0となり、そうなると自分とは何か、自分がしていること(広義には生きていること)の価値は0と認識し、無意味な事(意味を見出せない)に労力を咲くことは退屈で苦痛になり生き続けるのが(自分の意味がなんとなくでもよいから、少なくとも0ではない何かとかんじられていたときより)困難になる。

実際に0でなくとも、0のように思えたり、自分の認識上0と判断するなら、今述べたような状態に近づいていくように思う。

解決するには、いまのところ2つ思いついている。

1つは他人に自分の行動を評価してもらい、それを通じて、自分の存在価値を自認できるような状態を作る。

2自分で自分の存在価値を評価できる基準の基礎付けを自分で構築する。

多くの人にとってどちらが簡単かということ、僕の経験則からだと1だと思う。

人は一人では生きていけない、といわれるのもそういった結果の歴史からでてきたのかもしれない。分業貨幣経済社会で物質的に生命を維持するには一人では生きていけない、という事も現実として多くの人にあてはまると思うが、今言っているのはたとえ、物質的への他者依存度が0になったとしても、本質的に人間は1や2を必要とされているのかもしれない。

その理由はわからないが、もしかしたらリチャード・ドーキンスのような遺伝子に由来した説明があてはまるのかもしれない。

一人が好きだ、という人もそれは本質的ではなく、1で自己の価値を確立しようとしたが、失敗し、2へ移行中の人や、2が成功した人達なのかもしれない。

 

これが人が社会で他人と共存して生きてゆく意味なのだとしたら、そのかかわり方や方法には個人差はあっても、そこから完全に抜け出して生きて行くのは簡単ではないように思う。たとえ抜け出したいという欲求が生まれたとしても、そしてそれが成功し、一時的に抜け出すことができたとしても、それを維持するのは難しそうにみえる。

 

算数の話に戻すと、子供のときに算数は安心できる世界だった。

絶対的存在を信じられることは生きるのをやさしくする。

当時の僕には算数のルールの存在はキリスト教徒の神の存在のようなものであったのかもしれない。

しかし、最初にも書いたが、特にそれをやり続けたいと思うほど好きではなかった。

ドリルなどで反復して計算させられる上で、それなりの精度で相応しい行動(制限時間内に計算ミスなく正しい解答)は出来ていたと思うが、それを何度もさせられることには苦痛を感じていた。

それよりも、新しいルールやその仕組みを学習することに喜びを感じていた。

総合的にはその活動は、「おもしろくなく、かつやらなくてもよいこと」と判断したため、中学卒業までは少しはあったであろう学ぼうと言う積極的姿勢を消すことにした。

しかし、中学卒業までの間でも数学(算数も数学に含めた意味での数学)と関わる中で、純粋に楽しい(ただずっとそれだけしたい)と思えるような、事を習った。

それは証明だった。

自分が体験する他のどんな事柄よりもスムーズできれいと感じ、興奮を与えてくれる活動だった。

スムーズとは、血管に何も付着しておらず、その中をサラサラで淀みのない血がスッと流れるような感じ。

きれいとは、出来上がった証明を見て、何か揺るぎない完成形をみて、その完成度の高さに対する感じ。

興奮とは、きれいを体験するまでの過程において試行錯誤する中で、またきれいを感じたときの非日常的体験に対する感じ。

中学の数学だから、他人からみたら難しい証明をしたわけではない。

しかし、自分にはそれは特別な体験だったと思う。

しかし、学習に対してここでは省略するが様々な理由から消極的だったため、当時の僕にとっての学習内容というのは季節のようなもので、自分でコントロールできるものではなく、ただそれが目の前にある間だけ接することが可能であるもの、(春にだけ桜がみることができるようなもの)というのが前提としてあったので、学校で証明を教えてくれるだけ、熱中した。通っていた塾では、学校で教えない発展問題をくれたので、それもたくさんやった。

そして、証明の季節が過ぎたと同時に僕は次の季節を前提に従って受け入れ、高校では、外に出て季節の変化を見るということも辞めた。

それから最近に至るまで、算数には日常生活で必要な程度、数学は大学で経済学に必要な程度(算数として)接する機会があった程度で、大学の数学というものを知らずにやってきた。

しかし、最近大学の数学の内容をyoutubeで話す人がいたのを聞いて、

これこそ、自分が一番快適と思える活動の一つ、そして今ならその活動を実践する準備が整っていると感じた。

実践できる準備とは、実際にその活動をする時間や活動を行うために直接必要な知識があるという意味ではなく、仮に現状それらがなくとも、それらを今後作ることができる、と思えるようになった状態、という意味だ。

実際には時間を作るために、ライフスタイルを変える必要があるし、中学までの数学の知識しかないから、高校の数学の知識を身につける必要がある。しかし、いま僕はそれらを手に入れることができる、と思える。

 

論理学を学習し、演繹中は安心でき、帰納は役に立つが不安が残る感覚を持った。

だから、科学の内容についてよく知らないときは、科学は不安を感じる帰納を使っているから、同じように不安を感辞させるものだと思い、長い間距離を置いていた。

だが、科学哲学を少し学習し、科学の内容を知ることにした。

きちんと中身をみてから、判断しようと思っている。

一度中に入ってみると、まだ中学高校の内容なのだろうけど、いまやっている物理、生物学については、きちんと演繹が機能しておりいまのところ安心できる。

 

大学の数学の内容はまだ知らないが、基礎付けのために証明作業をするとのことで、其の証明中は演繹をするだろうから、安心できそうだが、一番上にあるのは何なのか、帰納に依存しているなら、不安は0にならない。

科学のように実用レベルで問題ないからよし、とするのでは満足できない部分が残る。

だから、昨日、微分積分を学習した際、いやな気分が残った。

微分積分の内容はすばらしいと思う。けど何かの極限は何かの極限であって何かそのものではない。

だから、トートロジーは実用的には価値がないと言われるそうだが、僕には惹きつけられる安心感がある。

ただ、トートロジーだけでは知識の拡大が限定されてしまうから、科学やそこで使われる帰納や極限を一旦受け入れ、知識の拡大を可能とした後に、得た知識と共にトートロジーや演繹についての考察をはじめるのもよいのかもしれない。

 

昨日は、数学は微分積分微分偏微分と全微分をヨビノリというyoutubeチャンネルから学習し、

 

 


中学数学からはじめる微分積分

 

 

 

物理学は、運動の法則を、新しい高校物理の教科書から、

生物学は、基礎から学ぶ・生物学細胞生物学第2版から学習した。

 

ヨビノリのたくみという先生の教え方は自分に合っていると感じたので他の事柄も

学ばせていただこうと思っている。

説明の丁寧さ具合や教えようとしている事の誕生の背景やその実践的活用法なども教えてくれ、それらは自分の知的好奇心を刺激してくれるものでもあるので有難い。

たくみ先生、どうもありがとうございます。

 

社会人として生きるなら、考える事とそれを行動で表現することの中庸を求めながら他者と関わっていかなければならない。

そして、ある意味では、自分も自分の外の世界も変わり続けていると思うので、その都度中庸を更新しながらそれを求めていけばよいのだろうと思っている。

 

 

 

 

 

22年ぶりに数学をはじめる

コロナの影響もあり、読書時間が増えたため、

本棚にあった「オイラーの贈り物」という本を読み始めた。

僕は中学を卒業してから数学はほぼやっていないが、それぐらいのレベルからでも始められるようになっていると最初に書いてあったから読んでみた。

 

しかし、数ページしか読んでないのに、説明が省かれているレベルの記号の意味や、数式の展開が理解できなかった。

 

よって、「文系数学超入門」という本をまず読むことにした。

こちらは基礎的な部分にも説明があるので丁度よさそう。

 

オイラーの定理の数式が理解できたら感動できそうな気がする、

というのが動機の一つだ。

絵画とは違う美しさを体験してみたい。

絵は見た瞬間にその絵の知識がなくても美を感じるものは感じる。

そのあとその絵の仕組みや意味、いつどこでどのようにしてどんな人が描いたのかを知ることで、また別の価値を見出したり感じることができる。

しかし、記号の場合は、僕の場合は、美しさを感じたことはない。

見ただけではダメということだ。

その記号の背景がわかって意味が理解できた時に絵とは違った美の体験ができるのではないかと思っている。

 

今日は、素数有理数無理数循環小数の意味を理解した。